きまぐれ雑記

いや~日ハム優勝しましたね~。最終戦など、テレビにかじりつくようにして見てましたよ。恥ずかしながらわたくしトラキチであります故、阪神が今シーズンの優勝を逃した際には非常に落胆し、地元日ハムの快進撃を横目でにらみつつ「阪神が負けたからもうどーでもいいべさ」という、道民にはあるまじき暴言をところかまわずまき散らす日々だったわけなのですよ。

でもね・・・相変わらず大振りで引っぱってばかりの新庄や元阪神の坪井とかね、気にはなっていたのですよ。・・・ゴメン!白状すると、新庄は昔から好きだったですよ。阪神時代、当時としては珍しい赤いリストバンドや手袋をして打席に立つ新庄。引っぱってばかりの新庄。好守備を見せる新庄。大リーグへ行ってしまった時には、恨みさえしました。そして日ハムへ入ったときは、裏切られたような気分・・・でも、彼は言っていましたね。できるなら、甲子園で日本シリーズを戦いたい、と。阪神への愛着を忘れていなかったと知ったとき、わたくしの心の中に安堵に似た安らぎが膨らんでいくのを感じました。

派手な格好や奇抜な言動が目立つ彼だけど、最終打席での涙、そしてゲームセット後の涙なんか見てるとね、なんか胸が詰まりますよ。お疲れさまと言ってあげたい気分。使用しているグローブにまつわるエピソードや、最終打席、前が霞んでボールが見えない新庄に、中日の捕手谷繁が彼にささやいた一言など・・・野球冥利に尽きるというか、彼にふさわしい一コマですよね。

日本シリーズを食い入るように見ているわたくしに友人が一言、「阪神が負けたから興味ないんじゃなかったの?」平静を装ってみたものの、一瞬ハッとしたのは事実です。べ、別に日ハムに興味があるわけじゃない!野球を愛する道民としての最低限の情報を仕入れようとしてるだけなんだ!しかし、ヒルマン監督よろしく外国人がようやく覚えた片言の日本語を叫ぶ時って、なんであんなに面白おかしく、そんでもって感動するのかね?

面白記事を今日もいくつか。
Google、「ググる」の使い方を注意 商標が一般名詞化する瞬間のせめぎ合いというか。でもGoogleの杞憂な気がするなぁ。
ソフトバンクの新料金プランは、“予想外”に複雑 この記事を読んで、普通の人は2880円で使えないということが分かったのですっきりしました。
Security Akademeia ピッキング講座とか。セキュリティ対策として。
阪神タイガース – Wikipedia 何となく見てたら面白いエピソードや記録があったので。

きまぐれ雑記

殴られないで大きくなった奴があるかっ!!という名言を残した軍人がいる。たぶん殴るという行為そのものには本質的な意味はなくて、上下関係、時には親子関係という儒教的規範にものをいわせて相手を押さえつけ、その上でそいつの非を身体で理解させるということなのだろう。自分の非を理解できない子供には有効なしつけとなるが、処方を誤るとその子の精神的発達を阻害することもある、諸刃の剣・・・というか、そんなことを言ったらどんなしつけや教育だって諸刃の剣じゃね?ともあれ、そういうことの繰り返しで、子供は大人の世界ってものをなんとなく理解していくのかな。それがいわゆる、成長とか、大人になるってことなのかね。

大人は、殴られなくても大きくなる。すなわち、自分の非を自ら認め、自分の行為によって被害をこうむった相手に「謝罪」するのだ。非を認め、相手に対し詫びの言葉を言う、頭を下げる、土下座する・・・これらの行為は、相手に対したとえかりそめであれ自ら服従的態度を取るという恥辱に耐えるということだ。平時であれば、正常な人間にはとてもできることではない。人に頭を下げられる人間は、自分を律し他人を思いやることのできる人間として重宝される・・・ような気がする、気がするというか、そういうことの出来る人間になりたいの。

しかし、謝罪のあとに何が残るのだろう。ときどき、こんな人がいる。自分の非を認めるのはいいのだが、とにかく平謝り。顔を見れば平謝り。うざいからもういいって言われても平謝り。曰く、「自分の気が済みません」と。つまり、この程度の謝罪ではミスを犯した自分を納得させられないということなのだろう。

なんだか哀れだ。でも、その人の気持ちも分かるからその人を笑うことなんてできやしない。謝られている自分にできることといえば、「もういいから、今後は気をつけてね」と声をかけることくらいだ。

謝らなければいけない立場になってしまった。私は、心から詫びた。嘘かホントか知らないが、「大したことないから」と言われた。口には出さないが、現状復帰するために割かねばならない犠牲があれば、出来る範囲で受けるつもりだ。そして、真摯に反省し、今後に生かす。私に出来ることは、それくらいなのだ。謝罪の言葉をばら撒きたいよ。そうやって自分を納得させたいよ。猛省している自分を世間にアピールしたいよ。でも、たぶん相手はそんなことを求めているわけではないだろうから、だから我慢する。それよりも、再発防止の努力をする。

世間には謝罪があふれている。公的機関は、不祥事を起こしてはトップが禿頭をさらす日々。某国はいまだに謝罪と賠償を要求し続けている。見てて飽きないね。

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仕事でいくつかの小学校を訪問しました。業務内容は、子供たちにオーケストラ演奏を聴かせること。我が社としては、未来の顧客確保という非常に打算的なもくろみも当然あるのだろうが、子供たち自身の情操教育とか、子供たちと音楽を通してコミュニケーションを取ることでこちらもよい刺激を受けるといった、言葉にすると非常に美しい理想論っぽいことも現実には起きているわけで、双方にとってとても有意義な時間が持てるのです。

小さな子供たちに音楽を聴かせるのって難しい。知ってる曲なら、目の前で演奏して見せれば身を乗り出すようにして聴いてくれる。数百人の子供たちが、一人の演奏家の奏でる曲に合わせ、誰に指示されたわけでもないのに歌い始めたり。

でも、いわゆる「クラシック」な曲って、仮に知っている部分があってもそれはわずか数秒の旋律だったりして、そのほかの数分、時には十数分は知らない曲。始めは様々な楽器に興味を示していた彼らも退屈してくる。となりの子とおしゃべりして先生に叱られる。ケンカが始まったり泣き出す子がでたらもう最悪。

子供たちにクラシック音楽を少しでも楽しんでもらうというのは、音楽集団である我々の任務の一つであり、やりがいでもある。プログラムに工夫が必要だし、指揮者体験コーナーや楽器紹介なんかも有効だ。指揮者あるいは司会者のトークも重要。子供たちに分かりやすく、面白く、ためになる、子供の視線に立った解説が必要だ。一方で、学校教育の現場においては子供たちの一番身近な存在である先生たちの役割も重要である。開演前に子供たちはおしゃべりはダメと釘を刺されるが、これはあまり良くないというか、適切でない場合もある。もちろん、礼儀作法や忍耐力を養うためとか、まわりのお客さんのことも考えさせるとか、そういう教育も必要だけど、場合によっては子供たちに自由に音楽を楽しませることも、教育上適切であることもある。演奏に合わせて歌ってくれたりすると、我々も楽しくなってくるし、かといって踊りまわったりされると集中力をそがれることもあるし、程度問題なのだが。

ほとんどの先生が「楽しみにしてました」とにこやかに話してくれる。ただ哀しいかな子供たちの前では、いくら楽しくても大はしゃぎすることができない。一昨日訪れた小学校では、一人の先生にもオーケストラの指揮を体験してもらった。先生は耳まで真っ赤にして、汗までかいて緊張してたみたい。でもやっぱり、どこか慎み深いのね。子供じゃないし立場もあるし威厳も保たなきゃならないし、気持ちはすごく分かるんだけど。先生たちにも心から楽しんでもらえるようなプログラムってないものだろうか。これは今後も考えていきたい部分。

学校の現場というのは、当然ながらコンサートホールの勝手では事は進まない。担当の先生たちも、言葉は悪いが素人同然である。なので、こちらもそういった対応をしなきゃならないし、コンサートホールでは当然のように行われることもいちいち説明して理解を得ないといけない。いけないというか、そうすべきであると考えている。またまた言葉は悪いが、そういった面で先生たちを「教育する」ことも我々の任務だと考えている。もちろん、コンサートホールでは当然のように可能なことも学校施設内では不可能なこともある。例えば、学校敷地内での喫煙は厳禁だ。でも、指揮者やソリストがスモーカーだった場合、無理を言ってどこかで喫煙可能にしてもらうことも。無理にでもお願いするところと、諦めるところと、相手の考えも含めてきちんと理解し対応する必要がある。

閑話休題。私も幼少のみぎりの頃、通っていた小学校に弦楽四重奏や演劇団体が来たことがあった。当時は大して興味もわかず適当に見てたような気がするが、今思えば大変もったいないことをしたものだと歯ぎしりすることしきりである。ところで、それぞれの団体も同じように、我らが先生方と協議し、協力して公演を実現していたのだろうな。

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石山緑地ってとこに行ってみた。場所は札幌市南区石山東3丁目あたり。真駒内から滝野や芸術の森に向かう、通称「石山通」にある。豊平川から少し離れた採石場跡を利用した・・・

って、観光案内じゃなーい!

古代遺跡をほうふつとさせるこの施設、札幌市の施設っぽいから公共事業として建設されたのかな?公共事業といえば、エジプトのピラミッド建設は、ナイルの氾濫期(すなわち農閑期)の失業対策としての公共事業だったという説が有力である。ピラミッドは王の墓というのが昔からの定説であったが、現実としてはファラオの遺体を納めたピラミッドは発見されていない。最大のピラミッドであるクフ王のピラミッドの通称「王の間」には、空の石棺があるだけだった。では、建設の真の目的はいったい何だったのであるろうか?

何らかの儀礼空間としての建造物である可能性もある。でも、スネフル王のように一人で複数のピラミッドを建設している例もあり、案外、当時の有名アーチストのデザインした最新鋭のアート(建造費は税金より捻出!)としての目的しかなかったりして。ピラミッドだけじゃない。ナスカの地上絵とか、イースター島の石像とか、その建造目的は諸説紛々だけど、学術的な意味は案外なかったりして。いや、古代遺跡についてまじめに研究することを否定するつもりはないし、あれこれ想像を膨らませてみるのも楽しいものだけど、でも、こんなことも考えてみよう。現在作られている芸術空間を未来の人が見たら、どんなふうに思うのだろうか。石山緑地も、1万年後に発掘されたときには宇宙人との交信に使われた巨大文字だなんて説が飛び出してたりして。時が過ぎれば、当時の人々の想いなんて簡単に忘れられてしまうものかもね。

石山緑地の建設目的は知らない。けど、公費を使って建設されたのであれば、公共の利益のために建設されたのだろう。すなわち、市民の憩いの場、安らぎの空間として。時には、一つの目的のために市民が集える場所として。為政者は、昔は絶対君主、現在は政府ってことなんだろうけど、昔も今も、こういう施設の建設目的って変わらないのかも。

なんてことを考えながら散策しましたとさ。面白いところだから一度訪れてみてはいかが?

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太陽系第9惑星が消滅――「冥王星は惑星ではない」ことに決定
冥王星外し、惑星数8に 国際天文学連合が新定義

新しい定義によると、太陽系の惑星は「太陽の周囲の軌道を公転し」、「自身の重力により球状を形成し」、その重力により周囲の天体を吸収するため「自身の軌道近くにほかの天体(衛星を除く)がない」天体とされる。

一方、新たに設置された「矮惑星」の定義は「太陽の周囲の軌道を公転し」、「自身の重力により球状を形成」するが、「自身の軌道近くにほかの天体が残っており」「衛星ではない」天体。周囲に同程度の天体が発見されている冥王星は、この代表例とされた。(ITmedia Newsより)

おもしろいですねぇ。

・・・

では、地球は本当に「惑星」なのか?

考察のカギは、地球ではなく、その衛星、すなわち、月にある。矮惑星の定義には、「自身の軌道近くにほかの天体(衛星を除く)が残っており」「衛星ではない」天体とある。地球が衛星であると考える人はいないだろうが、月を地球の衛星と考えることに疑問を持つ人はいないだろう。しかし!

ここから先は、アイザック・アシモフ著『時間と宇宙について』(早川書房)からの引用を多用する。惑星にはロシュ限界と呼ばれる境界がある。惑星には、衛星を形成できる自身からの最小距離が決まっており、この距離より天体に近い領域では衛星を形成できない(微細な岩石のかたまりなら存在できるが)のだ。これをロシュ限界といい、惑星中心から惑星半径の2.44倍であるという。太陽系のすべての衛星は、この限界距離より外側にあることが分かっている。例外といえば、土星の輪くらいのものだ。

また、惑星には、太陽の引力に逆らって衛星を自身の引力圏内に繋ぎ止めておくことのできる距離がある。この距離は、それぞれの惑星の持つ衛星の質量や軌道などから演繹的に推定された距離であり、この距離より親惑星に近い軌道を周遊する衛星は、真の衛星などと呼ばれる。これに対して、この距離より遠い軌道を巡る衛星は、捕獲された衛星であると考えられている。実際、捕獲された衛星と考えられている衛星は公転軌道が真円ではなく楕円であったり、質量が極めて小さいなどの特徴がある。捕獲された衛星と親惑星とは、宇宙的時間スケールからするとかりそめの付き合いなのだ。

さて、地球ではどうなっているのか?

実は、地球の唯一かつ真の衛星であるとされている月は、この距離より遠い軌道を回っているのだ。つまり、親惑星であるとされる地球から遠すぎるのだ。しかしながら、他の惑星のそれと比べ、捕獲された衛星にしては大きすぎる。しかも、地球の赤道面ではなく黄道面、すなわち惑星が太陽を公転している面を公転しているのだ。

これらをまとめると、地球と月とは親惑星と衛星、すなわち親と子の関係ではなく、お互いがお互いを回っている二重惑星、すなわち兄弟の関係であるという推論もなりたつかもしれない。すると、地球には自身の近くに衛星以外の天体が残っているということになり、惑星の定義から外れることも考えられる!

アシモフの著書が1978年出版ということから、ここで取り上げたデータはもしかして修正されているかもしれない。だが、今回新たに設けられた惑星や矮惑星の定義は、冥王星を惑星から外すという影響だけで収まらないかもしれない。話は少し飛ぶが、教科書の書き換えは速やかにすべきだと思う。もちろん、事実のみを記述するのではなく、冥王星が惑星の定義から外れた経緯などもきちんと記述すべきなのはいうまでもない。

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ガンダム展

芸術の森美術館で9月24日までやってます。芸術の森・・・略して芸森、さらに略して「森」。一身上の都合で頻繁に出入りしてますが、美術館方面へ足を運ぶのは昨年10月の海洋堂展以来です。ガンダム教習所をはじめ多くのガンダムサイトでも紹介されていたので、否が応にも期待が高まります。コネクションを最大限に活用して招待券をゲットし行ってまいりました。というかコネクション万歳

エントランスには富野先生の力作「From First」が・・・って、下に写真があるので観たい人はどうぞ。海洋堂展同様、エントランスの展示のみ写真撮影okでしたので。

誤解をしてる人は少ないと思いますが、ガンダムそのものの展示会ではなく、いわゆるガンダム世代と呼ばれる人たちの芸術作品の展示会です。ガンダム世代というのは便宜的に使っているだけで、たぶん出展者の年齢はばらばらだと思います。言葉を換えれば、ガンダムへのオマージュ展ってとこですね。今回は、それぞれの作品についての簡単な解説が載せてあるパンフレットももらえたので、それを片手に館内を見て歩きました。音声ガイドもありましたが、以下のような仕様になっているとのこと。

★音声ガイド 500円
古谷徹(アムロ声優)、池谷秀一(シャア声優)、東谷隆司(本展キュレーター)出演で、作品をわかりやすく解説します。

本展ナントカってのは宇宙世紀原理主義の当方にとって眼中にないキャラ(というかどのガンダムで出てくるキャラ?)なので放置するとして、アムロとシャアが作品の解説をしてくれるとは!一瞬心が動かされそうになりましたが素通りしました。憎んでくれていいよ
追記・・・当方、本展キュレーターをキャラクターの名前と勘違いしてましたが、キュレーターとは作品収集や展覧会企画という中枢的な仕事に従事する専門職員を指す用語で、つまるところ、東谷隆司氏はガンダム展のキュレーターです。図録をよく見ると、東谷氏もいくつか文章を書いてますね。失礼いたしましたー。

チラシなんかを見る限りだと、狩野派の絵画風に描かれたガンダムとか巨大セイラさんとかが目玉展示だったようですが、当方の心を捕らえて離さなかったのは、書家・横山豊蘭氏の一連の作品群でした。書道とガンダム、この二つを無理矢理、しかも大胆に融合させた彼?の作風は、生真面目であるが故に滑稽でもあり、単純なようで複雑で、しかもシンプルという、絶妙な完成度を誇っています。千字文と呼ばれる漢字の羅列で描かれたア・バオア・クーとか、ジオングの頭部やガンダムのビームライフルをモチーフにした(伝統的な書道にも実用できるとのこと)とか。極めつけは、「光る宇宙」ニュータイプ・へんたいかなでしょう。アムロとララァの交感を巻物に書き取ったというそれは、幽玄な美しさで見る者の心を静めてくれます。あ、とはいっても変体仮名なので訳文がなければ読めませんが。見るんじゃない!感じるんだ!!ってとこですかねぇ。

とまあこんな感じでけっこう面白かったので、2800円もの大枚をはたいて図録を買ってしまいましたよ。ついでに展示会の記念プレートも1枚買ってしまいました。限定モデルのガンプラ「HGUC RX-78-2 ガンダム 限定クリアバージョン」1260円もありましたが・・・正直どうなんでしょう。全パーツがクリアパーツなんですが、合わせ目消しとか大変そう・・・きれいに作るのは難しそうですね。転売すれば儲かるかなぁ。このガンプラはいい物だ・・・とか言ってさぁ。

きまぐれ雑記

うーむ、地球人類にとってたいへん大きな意味のある日だってのに、3週間以上休みなく働き、ようやく訪れた休日に惰眠をむさぼっていた当方の前を、それは音もなく過ぎ去っていってしまいました。当日も惰性で午前7時に起き、テレビをつけると小泉さんが靖国神社を参拝してたし、高校野球も白熱してる。先日は、駒大苫小牧と東洋大姫路、智弁和歌山と帝京の試合を両方観ました。15日の正午には、甲子園でもサイレンが鳴ったのでしょうか。鳴ったはずでしょう。というか札幌の街にも鳴り響いたんでしょうか・・・寝てたので聴こえませんでしたが。

暑い日々が続いてましたが、台風も来てるしそれもそろそろ終わりかな。

うーむ、テレビがうるさくて考えがまとまらないー。でも、とりあえずブログを更新したということで。

きまぐれ雑記

タイトルはB’z「RUN」より。

どこかで、人生終了カウントダウンタイマーのようなものを見たことがある。人生80年と仮定、80年を秒に直すと2524608000秒。そのタイマーには2524608000がセットされてて、生まれると同時にカウントダウン開始するという珍妙なタイマーである。

さて、何か嫌なことをしなければならない場合、「あ~あ、俺様は死ぬまでにあと何回これをしなければならないのだろう」と思うことはないだろうか。例えば、筆者は床屋に行くのが苦手である。理由は秘密。必要に迫られて、だいたい2ヶ月に1度床屋に行くのだが、毎回のようにそういうことを考える。2ヶ月に1度ということは年に6回。50年で300回・・・気がめいるので、死ぬまでにあと何回か、なんてことは厳密に計算しないことにする。

逆もある。車の購入や引越しなど、一生に10度も出来ない事もある。結婚とかは、多くの人は1度程度だろう。楽しいこと、ワクワクすること、一生に何度も経験できないことって大切にしたい。

1年くらいで車を買い換える知人がいる。年に2度買い換えたことも。特に不具合がなくとも、他に魅力的な車があったら買い換えるのである。普通に考えたら放蕩もいいところだろうが、一生に何度も出来ない、「新しい車との邂逅」を楽しんでいると思えば、その人なりの有意義な散財なんだろうなと思う。

そう考えてみると、やはり日々のよしなし事でも大切にしたいと思う。大袈裟に言えば、一期一会ってことなのかな。それに・・・数を重ねていくという過程もまたいいものである。その行き着く先がどうであれ、幸せを感じる瞬間が日々少しでもあればいい。今日という日に誇りを持てることはすばらしいことだと思う。

閑話休題。

すずことり*
ことり文字ふぉんとをはじめとするかわいらしいオリジナルフォントを公開され・・・てました。久々にサイトを訪れてみてびっくり。フリーソフト作者の悲哀を感じずにはいられない。

筆者は当ブログ内で、他人の文章から引用することがよくある。書き出しのインパクトを狙う目的である場合もあるし、単なる感想文であったりする場合もある。文章を読むことは好きだし、勉強になる。ただ・・・他人の言葉でしか語れない人間にはならないようにしたい。いや、まねぶ、すなわち真似ることは学ぶということの第一歩だし、真似ることで表現力はつくものである。ただし、他人の言葉を剣のごとく振り回すのはいくないよ、というか、他人の言葉をさも自論の裏づけであるかのようにもてあそぶのはいくないよ。というか、本文より引用が多いのは軽くヤバイんでない?

きまぐれ雑記

渚カヲル・・・シンジに熱い視線を送りつつ「僕は君に会うために生まれてきたのかもしれない」の名台詞を吐き、世の女性たちの心を鷲掴みしたカリスマ的存在のアニメキャラ。CRエヴァンゲリオンセカンドインパクトでは、激レア演出にしか登場しない、というか彼が登場したらもう確変確定間違いなし!って感じで非常にありがたいキャラ。そのくせ自身は通常図柄(6)だし、カヲル君で大当たりがきても彼は何も言ってくれない。例えば、レイ図柄(1)がそろったときはレイが「ありがとう・・・」って言ってくれるし、ゲンドウ図柄(9)の時は「よくやったな」ってゲンドウが言ってくれるのさ。もう、感激♥でも、カヲル君と加持センパイ(4)は何も言ってくれない。せっかくの大当たりなのに何か切ないの(´;ω;`)

さて、彼は登場シーンですでに片手をポケットに入れていた。エヴァ解説本(名前は失念)によると、ポケットに手を入れるのは、心理学的には何か隠し事があることの象徴らしい。そして、エスカレーターに乗っているシーンやゼーレの面々と対話しているときなども、ポケットに両手を突っ込んでいる。弐号機を操っているときさえも。

さて、当方もクセでよくポケットに手を入れている。ジーンズのポケットは小さい。しかもzippoやら携帯やら車の鍵やらをいつもポケットに入れているのでよけい窮屈である。でも、歩いてる時も電車に乗る時も、おててはいつもポッケの中。なんでだろう。隠し事はあんまりない。けど、必要な時は嘘も平気でつくので、自分の本当の気持ちを隠すことはままあるというか、心にもないことを平気で言うことには慣れてるかな。カヲル君の真似をしてるつもりはない、が、いつか「カヲル君みたいね♥」とか言われたいものである。

きまぐれ雑記

お買い物するとお金が減る!!のは当たり前ですが、お金が増えるとなんかいいことある?ってな感じで、自分をごまかして、数日おきに少しずつ、プチ衝動買いの快感に包まれております。いや、お金が増えて嬉しいことっていっぱいあるのは分かっておるのです。まぁでもね、お金を持ってあの世に行けるわけでもなし、ぼろを着てても心は錦とゆーか、んーようするに心の平安を買いたいわけですな。

遊ぼう!ぱちすろっと!

上記サイトの管理人氏は、「興奮」を買うためにパチンコ屋に行くそうな。もちろん、それでお金が稼げれば言うことなし。そうでなくっても、「興奮」を手に入れられれば。そもそも、映画鑑賞だって、スポーツ観戦だって、サービスを「買っている」、つまり、所持金を消費してサービスを受けていることにはかわりはないわけ。

さて、「サービス」を買うのではなくて、「モノ」を買うことに何の意味があるのか?それはつまり、耐久消費財として手元に残って、ある程度の期間その価値を維持し続けることにあるだろう。食料は、食べてしまえば物質的には消滅状態となる。それに対し、テレビは?買ってから少なくとも数年間は、テレビとしての価値を維持し続けるだろう。

ただ、モノは増えると邪魔だ。衝動買いなどでよく考えもせずに買った物は、無用の長物となり我々に自責の念を起こさせる。高価な物、巨大な物なら、なおさら大きなプレッシャーを放つ。それでも・・・物に囲まれてないと不安だな~・・・(´・ω・`)9m

さて、当方貧乏なので、他人の買い物日記みたいなものを読んで気を紛らわすこともなくはないです。そんなわたしの、数年来のお気に入りサイトの一つがこれ。

Ben雑記

数年前はゲームボーイの改造やらHDLOADERの使用法やらマジコンやらと、アングラテイストあふれるサイトだったのですが、今ではすっかりお買い物サイトになってます。でも文章が結構面白いし、紹介している商品も当方の趣味にちょっと合うというか、ちょっと変わった変なものだけど買ってみたよ!安かったよ!結構いいよ!!いや、だめだったよorzってな感じで、レビューもうまいんですよね。こういう人のアフィリエイトからなら買ってもいいか~と思ってしまいます。

というか、ポップコーンうまいよという記事に踊らされて、なんとかこの商品を手に入れる方法を画策中・・・通販やヤフオクは送料がかかり、コストパフォーマンスの高さの旨味が薄れる(業者によって送料はまちまちだが、定形外などの格安な発送をしてくれるところはないみたい)。そんなら、1小口の送料で数ケースまとめ買いするか?賞味期限もあるし、不良在庫を抱えるだけだべ(´・ω・`)そのうち、ご飯代わりにポップコーンをかじる羽目になるべ( ´ ・ ω ・ ` )

かといって、今日ドンキホーテに行ったが置いてない。近所のスーパーやコンビニにはもちろん置いてない。わざわざ鈍器に行って何も買わないのは、と思い、仕方なく別の商品を衝動買いしてしまった。さて、どうするオレよ?どどどうするっ!?