物事が停滞するとき。解決法を実行しようにも、その前に実行しなければならないタスクが山積してたり、そのタスクを実行するためには「解決法」を実行しないといけないというトホホな状況だったりする。そんな理不尽な現実を目の当たりにするとき、ロダンの考える人よろしく頬杖をつきうつむき加減で人は瞑目する。こんな状況はいかがだろう。空腹だ。死ぬほど空腹だ。しかし食べ物を買うお金はない。金を稼ぐにははたらかなきゃならねぇ。だがしかし!駄菓子菓子!腹が減っては戦は出来ぬ。武士は食わねど高楊枝。戦に出る前にまず空腹を満たさねば!しかし食べ物を買うお金はない。金を・・・以下略。
名前を与えられることで事象は客観化され、言葉や文字で伝達されうるモノとなる。旧約聖書創世記の冒頭部分に明記されているとおり、はじめに言葉があったらしい。つまり、言葉の存在が、歴史の出発点ということだ。ということは?ビッグバンより生まれ出た各種の物理法則や抽象的概念は、言葉によって表現されるまでは存在しなかったといえるのだろうか?少なくとも、人間にとっては存在しなかったといえるだろう。しかし、人間はいなくともリンゴの実は鉛直方向に落下し、「無」という物質状態は存在し、エントロピーは日々増大し、人類が絶滅したのちもそれは続いていくだろう。言葉を巧みに操るほど、事象をより具体的に、時には詩的に表現できる。が、そのあたりが言葉の限界だ。言葉で表現できないものはあるか?言葉で表現できないものは、言葉で表現できない、というよりほかはないではないか。果てのない事象を切り取り暫定的な値札をつけたもの、それが名前だ。無限に延びる直線を人間が扱いやすい分量で切り取り、線分と名付けるように。では、言葉はどこから来たのか?
前置きが長くなったけど、言いたかった事は次のとおり。自動車のフロント部分(ヘッドライトやボンネット、フロントガラスやサイドミラーなんか)って、人間の顔に見えるんだけど人間を模倣したのかな?それとも、人間工学的な必要性からそういうデザインやパーツ配置になったのかな?いや、筆者は幼少のみぎりの頃からそんな疑問を抱いていたのですよ。だってどんな車だって、ヘッドライトって明らかに目に見えるじゃん。フロントグリルは鼻でしょ。バンパーは横に長く伸びた口だべさ。そんでもって、人間の顔がそうであるように、パーツの配置によって車の表情が見えたりしてたものだ。精悍なマスク、おちゃめな笑顔、老成した表情・・・そんなものを見つけたくて、走り去る対向車を助手席から穴の開くほど見つめていたものだ。ヘッドライトの色を変える改造って、動機はアイシャドーを入れるのと変わらないでしょ。サイドポールのドレスアップやペイントに至るまで、装身具をまといたい欲求に通じるものがあると思われるがいかかがものか。
そうだよ、全ての車が基本的に同等のパーツ配置を採用してるよね。というか、そういうデザインじゃない車ってある?あったとしても、たいていゲテモノでしょ(ヘッドライトが3つとか、バンパーがへの字にひん曲がってるとか、そういうデザインの車があったら教えて!)。それに、実家にあったフォルクスワーゲンビートルの○周年記念誌?みたいなやつ!それにはビートルを人間の顔に見立てた珍妙なイラストも載ってたよ!フロント部分って明らかに顔じゃん。それとも、偶然似たというの?顔を元にフロント部分をデザインしたのか、デザイン的な理由からそうなったのか。にわとりが先かタマゴが先か・・・!